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2024/01/17 17:16



2021.11.22

下道 千晶 モデル・俳優。
2015年に、房総半島へ移住。自然に寄り添う暮らし方を実践中。
また、天然藍を使った染め直しの活動「meets BLUE project」を始め、活動を通して持続可能なライフスタイルを提案している。
 
  
冬になると、私の母は小豆を煮る。
鍋いっぱいに煮る。
母の小豆は、ほくほくしていて、つぶつぶしていて、甘くない。
その小豆を、何日かかけて、母と二人でせっせと食べる。
母も私も小豆が大好き。でも、父と弟たちはそんなに興味を示さない。だからいつも「どうせ食べるのは二人なのだから、鍋いっぱいに煮なくても」と思うのだけれど、なんとなく言えないまま、毎年せっせと食べることになる。

そのまま食べたり、パンに塗ったり、お餅につけたり、アイスにかけたり。 何しろ毎日食べるので、食べ方にも工夫が必要です。
 
そしてその小豆を食べるのには、ちょっとした合図がある。 その合図はたいてい、「お茶でも淹れようか?」である。
冬の寒い休日、まだ家族5人が一緒に暮らしていた頃。 母の「お茶でも淹れようか?」を聞くと、それぞれ思い思いに過ごしていた家族が「俺は紅茶にする」「俺は水でいいや」なんて勝手なことを言いながらもなぜだか自然とリビングに集まる。

母がお湯を沸かし、小豆を温めなおし、お茶の準備をしているあいだ、ポテトチップスを取り出したり、クッキーを食べたりする弟たち。そんな弟たちを横目に、「私も今日は違うものでも…」と思うのだけど、やっぱり母の小豆を食べてしまう。

お茶が入るのを待つ時間、小豆が温まるのを待つ時間。今思えばあれは、なんて温かで、くすぐったい時間だったのだろう。


母の声かけから始まるお茶時間はほんの30分程度なものだったけれど、それぞれの予定で忙しく、朝も夕も全員で食事をする機会も減っていたあの頃、たまに訪れるその時間は、家族がそろって他愛もない会話をする貴重な時間だったのかもしれない。
 
そう思うと、もしかしたら鍋いっぱいの小豆を煮る母は、小豆を煮ることよりも、小豆のある風景を思い浮かべながら煮ている、時間そのものを愛しんでいたのかも知れないな。
今は私や弟は家を出て、家族5人が揃うことはますます少なくなってしまったけれど、自分の家でお茶を淹れると、あの時間を思い出す。



最近飲んでいる joscille skin&mind の養生茶「艶」を淹れる時間も、私にとってそんな時間のひとつ。

山口県徳地の杜の薬草を栄養価が高い時期に手積みで収穫し、自然乾燥した後、じっくり焙煎されたこのお茶は、ビタミン・ミネラルなど天然ポリフェノールが豊富なのだそう。鎮静効果も高く、お肌や心を整えたい人や、パソコンやスマホをよく使う人にもおすすめで、無添加・無農薬・ローカフェインなので、家族みんなで安心して飲めるのも嬉しい。

リモートワークでお疲れ気味の夫に、 休日のおやつ時間で子供と一緒に、そして私自身の肌のために、心のために。
誰かのため、自分のためにお茶を淹れる時間が、慌ただしい日常の中に、あの頃と似た温かさを感じさせてくれる。

私はつい面倒だと思ってしまい、冬に小豆を煮ることはしていないけれど、 母が小豆を煮る時間を大切にしていたように、私にとってはお茶を淹れるこの時間が、心と身体を整える、ちょっとした儀式なのだろう。

私を整えるお茶時間のおともになった、徳地の杜から採れた薬草茶。地元では、なんと約800年以上前から、健康のためのお茶として愛され続けているそう。 薬草茶と聞くと、「苦いものを我慢して飲む」とイメージしてしまいがちだけれど、joscille skin&mind の薬草茶はそんなことはなく、香ばしい香りと、まろやかな口あたりで、クセが少なく 飲みやすい。カフェインが強めの緑茶やコーヒーは毎日飲むには刺激が強すぎると感じてしまう私でも、joscille skin&mind の養生茶「艶」なら毎日でも楽しめそうだ。

美味しく飲めて、肌や心にも優しい、嬉しいことがたくさんのjoscille skin&mind の養生茶。



実は環境にも優しい工夫が。

包装にプラスチックを使わないだけでなく、多くのティーバッグにみられる、茶葉を包むバッグ部分にもプラスチック繊維を使用していないのだ。これならお茶を淹れた後に、ティーバッグをまとめて燃えるゴミに捨てても、大丈夫と思える。

なんなら捨てる前に、この出涸らしを肌荒れした部分にのせると、肌の状態が落ち着いたりもするらしく、最後の最後まで使いきれて、とってもサスティナブル。このjoscille skin&mind の養生茶みたいに、私たちは自然の力をたくさん借りて、心と身体を健やかに保てている。そう思うと、この1杯が、どうか自然のエネルギーを奪うものでありませんように、と願わずにはいられない。



お茶を飲みながら家族のことを思い出すとき、同時にそんなことを思うのは、私たちはみな、かつてはきっと一つの家族だったからかしら。

母の小豆が、私のお茶となり、また誰かの何かになる。誰かと誰かの記憶の重なりで、命がつながっていくとしたら、私の今日の1杯のお茶も、どこかで生き続けるのかも知れない。

だとしたら願わくは、その1杯の記憶は、どうか優しい1杯でありますように。